四谷新生教会 2021.3.28
マタイによる福音書27:32-56
「あなたを生かすために」
今日の日曜日は教会の暦では「棕梠の主日」です。そして今日から受難週に入ります。主イエスのこの世でのクライマックスとも呼べる一週間の歩みとなります。
主イエスは12人の弟子達や同行する人々と共に、エルサレムの都へとやって来ました。その目的はユダヤ教の指導者、権力者に捕らえられ、十字架で処刑されるためでした。そして、殺されて3日目に復活するためでした。このことをすでに主イエスは、弟子達に3度も予告をしていました。しかし、弟子達はこの主イエスの予告を戯言のようにまともに聞くことができず、その意味を理解することができないでいました。理解できなかった大きな原因は「思い込み」が強かったからです。その思い込みとは、主イエスがイスラエルの新しい王となり、弟子である自分達は、この世での高い地位や名誉が与えられるはず、ということでした。
そのような思い込み、期待を抱くのも致し方ないことだったのかもしれません。何と言っても、主イエスが当時の医学では治せなかった様々な病気や障がいを治したり、権力を振りかざしていた律法学者や祭司長、長老達等、当時の指導者、権力者達を言葉で打ち負かすところを、目で見て耳で聞いていたのですから。
主イエスの奇跡の業やこの世の権力を超える権威を、弟子達だけでなく、主イエスのエルサレムへの旅に同行していた人々や、エルサレムで主イエスを迎えた人々の多くも目撃をしていました。そのような人々は主イエスを預言者以上の存在、つまり救い主だと信じて疑っていませんでした。主イエスが王となった暁には、自分達を苦しめてきた権力者達が一掃され、自分達の生活は楽になるはず、とのボルテージが最高潮となったのが、人々がヤシ科の常緑樹である棕梠の葉を道に敷いて、主イエスをエルサレムに迎えた時だったのです。人々は主イエスに向かい「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と、興奮し声を上げ大変喜びました。
いずれにしましても、弟子達や多くの人々が主イエスに抱いた思い、期待は、きわめてこの世的、人間的なものだったと思います。少しでも今の生活よりも良くなりたいと願うこと自体は悪いことではありません。
人々が大歓迎で迎えた主イエスは、何と指導者、権力者達に捕らえられ、十字架で処刑されることになってしまったのです。この急転直下の出来事に、人々は大変驚き、戸惑い、失望をしてしまいました。期待が高かったので多くの人が、主イエスに騙されたと逆恨みをしました。それは人々が主イエスの思いを知らずに、勝手に主イエスが王になると思い込み、思い違いをしたことで、「可愛さ余って憎さ百倍」となったのです。
主イエスは捕らえられた後、散々に侮辱や暴力を受け、痛めつけられ、そしてゴルゴダという処刑場へと連れて行かれました。そこに着くと主イエスは、「にがいものを混ぜたぶどう酒」を飲まされようとされましたが、舐めただけで飲もうとはしませんでした。このにがいぶどう酒は、当時のユダヤ人の習慣として、死刑囚へのあわれみとして、肉体的・精神的な苦痛を和らげるために用いられた一種の麻酔剤でした。それを主イエスが拒否したのはなぜだったのでしょうか。それは十字架での処刑で味わう苦痛を、すべてありのままに受け入れるという覚悟があったからです。また、そのことでこの世で苦痛の中にある人々を、主イエスのもとに招くためでもありました。苦痛を何かでごまかしたり、紛らしたりせず、すべてありのままに受け入れるところに、主イエスと共にある勝利、命があることを示されたのです。主イエスは現実の苦痛から逃れ
ようとする私達に、その苦痛さえ主イエスの愛の中に受け入れられるのだと教えて下さっているのです。
十字架につけられた主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きが掲げられました。この言葉は主イエスを侮辱しあざ笑うものでした。そして、主イエスの十字架のところを通る者は、主イエスをののしって「神の子なら、自分を救ってみろ」と言ったのです。「これはユダヤ人の王イエスである」という言葉に、人が神を試すと言いますか、神を都合よく利用するという人の傲慢さ、罪深さが伺えます。
一般の人々と同じように、ユダヤ教の指導者である祭司長達や律法学者達、そして長老達も、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と、主イエスを侮辱しました。ユダヤ教の指導者達が目的としていたのは、この世の権力や人を引き付ける奇跡でした。しかし、主イエスが目的としたのは、この世の高みに向かう権力ではなく、低いところに向かう権威であり、貧しい人や病にある人、障がいのある人等、この世にあって小さな存在、権力者によって小さくされている存在を生かす愛の働きでした。権力を代表するのは暴力による支配ですが、権威は罪の赦しと愛の働きによる共に生きる世界です。権力者はこのような権威を嫌い、恐れて弾圧し排除しようとするのです。それゆえに、まことの権威者主イエスは、権力者であった祭司長や律法学者達、長老達、権力を求める人々、そして驚くことに、一緒に十字架につけられた強盗達からも、主イエスは嫌われ、侮辱され、捨てられたのです。
このような主イエスの十字架での姿は、この世での敗北であり失敗だったのでしょうか。人々の主イエスへの怒り、敵意、憎しみは、人の本性である悪、罪なのですが、それらを主イエスは真正面から受け止めて下さったのです。主イエスがこの世で敗北や失敗をしたように見られますが、実はそこに私達人間を徹底的に受け入れられるという、主イエスの愛の姿があったのです。
十字架につけられた主イエスは、午後三時頃に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれました。その言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。そして、主イエスは再び、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫び、息を引き取ったのです。この言葉を耳にした人々は、主イエスのこの世での最期が情けない、惨めな死に方だったと感じることだろうと思います。この主イエスの姿には、この世では罪人とされ、苦難の中に生きた主イエスのありのままの弱さが、すべてさらけ出されているのです。
この世での勝利を望む人々には、この主イエスの姿は無様なかっこ悪い姿、死に方に見えることでしょう。そのように見えるのも致し方ないのかもしれません。確かに主イエスの最期の言葉は、「神よ、わたしを見捨てたのか」という不安と絶望の叫び以外の何ものでもなかったのですから。しかし、主イエスの死に方に安心してホッとさせられる人々がいるのです。それは大きな病の中にいる人や障がいを負っている人等、この世で小さく、貧しくされている人々です。その人々は、たとえ人生を痛みや苦しみ、さびしさや悔しさ、怒りの中で終わるとしても、主イエスのこの世の最期の姿を通して、どんな死に方であっても、その死の先に復活と平安があることを知らされるのです。
25年程前のことになりますが、当時私は横須賀上町(うわまち)教会の牧師でした。教会員の一人に廣瀬誠さんという小児科、内科医がおりました。廣瀬さんは1992年から横浜 YMCA の活動で、毎年クリスマス後から10日間程、ミャンマーの無医村での医療ボランティアのリーダーとして関わり、2005年1月1日に現地での活動を終え、帰国する直前にヤンゴンの病院で天に召されました。75歳でした。活動13年目で道半ばでしたが、活動はその後も長く続いています。廣瀬さんは出国前から体調が優れず家族から出かけるのを止められましたが、年に一度の自分の診察を待っている人々が多くいると言って参加をしました。
亡くなったのが1月1日ということでミャンマーや日本の行政が休暇のため、遺体を日本へ空輸する手続きがとても大変でした。廣瀬さんは2004年に公開された、主イエスの十字架への受難の道をリアルに描いた「パッション」という映画を観た感想を、「キリストの十字架での死は大変なものだった。改めて人間の罪を赦し、人間を天国に導いてくれるために、神様であるイエス様が払われた犠牲の大きさ、その苦しみや痛みの大きさを知らされた」と、私に語ってくれました。廣瀬さんは医療を必要とする人々のために、自分のできることで奉仕することに専念し、自分がどこで、どのような中で地上での歩みを終え、天国に召されるかについては、主イエスの十字架の死を通して、心配や不安をもっていなかったのだと信じます。
考えてみますと、私達は誰もがヨブ記の1章21節に記されていますように、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」という存在です。この世に一人で生まれ、一人でこの世を終え、神の国へと召されるのですが、自分がこの世でどのような最期を迎えるのか、死に方をするのかは、誰一人として知ることはできません。そのような意味では、誰もが死に対して不安や恐れを抱くのかもしれませんが、そうであってもやはり主イエスは、「あなたの死の先には、確かに復活と平安があるから心配したり、恐れることはないよ」と、身をもって示し続けて下さる方なのです。
(祈祷)
聖なる神様、あなたのみ名を崇め讃美いたします。
本日の棕梠の主日の礼拝に、あなたは再び私達一人ひとりの名を呼ばわり、聖霊によって、あなたの体である四谷新生教会へと導いて下さいました。心から喜び、感謝いたします。
本日から私達は受難週を過ごしますが、より祈りを深めて、主イエスの十字架への道を想い起して、主イエスが私達一人ひとりの罪を贖うために犠牲となられたことに感謝し、喜び、悔い改めながら受難週の先にある主イエスの復活日を迎えることができますよう養い、導いて下さい。
このお祈りを主イエス・キリストのみ名を通しておささげいたします。
アーメン。